朝鮮学校 日本語教師

やりがいはあるけど葛藤も…朝鮮学校で働くことになったきっかけとは

私は今27歳、日本語教師をしていますが、初めからこの職に就きたかったわけではありません。
成り行きというのでしょうか、運が良くてこの仕事をやっていけています。

 

私は小学生の時、親に面白いよと言われたある本を読むことになります。
これが全てのきっかけになるわけなのですが、それはハリーポッターでした。
魔法を使い、箒に乗って空を飛ぶなんて、一言で表すならとてもチープな物語になってしまいます。
ですが、読んでみたらそれまでにないほど引き込まれ、本でこんなに面白い世界が作れるのか!と驚愕したものです。
それから映画を見に行くとハーマイオニーに惚れ(女ですけどね)、立派なポッタリアンになりました。

 

そして私は中学生になります。
そこで初めて英語を習い、ハリーポッターはイギリスの作品なのかと知りました。
高校・大学と英語専門の学部学科に進み、留学もしました。
行き先はもちろんイギリス!
そこで、こう考えるようになりました。
「将来はイギリスで仕事がしたい」
しかし、現実は甘くはありません。
イギリスは特に就労ビザを取得するのが難しいのです。

 

私はここで初めて、イギリスに住むために日本語教師になるという選択肢を考えました。
語学は得意だったのですが、日本語を改めて文法から学ぶというのはなんだか変な気分でしたね。
でも、結果的には日本語教師の資格が取れました。
年に一度しかチャンスのない、日本語教育能力検定試験を受験し、無事合格。
挑戦を決めてから試験当日まで3ヶ月しかなかったため、寝る以外全ての時間を勉強に費やしていたので、達成感はかなりのもの。
ところが、これを成し遂げたからと言ってイギリスに住めるわけではありませんでした。
もともと身体が強くなかった私は、留学から帰ったあと体調を崩したしまったのです。

 

そこからはぎなぎなとアルバイトをしつつの生活でしたが、この日本語教師の資格を活かして地元の朝鮮学校の日本語講師として働くことができるようになりました。
正社員ではないものの、体調のことを考えるとそれでも自分の資格が活かせる仕事があることをありがたく感じました。
その朝鮮学校では、日本で言うと小学生から中学生にあたる子どもたちが勉学に励んでいました。
私も実は小学生の時に学校の企画で訪ねていったことがあり、親交が深いことから馴染みがありました。
言葉は通じなくとも、一緒に追いかけっこをしたのはいい思い出です。
体育館でチマチョゴリを来てダンスを踊ってくれたお返しに、クラスで和太鼓の練習の成果を見せるなんてイベントもやりました。
この私の昔のイメージとはなんら変わらない子たちがそこにはいました。
私はあがり症なので、初日は本当に緊張しましたね。
誰にも言いませんでしたが、直前にトイレで吐いてしまったほど。
でも、子どもたちは本当に人に懐くんですよね。
最初は私がどんな人間なのかと警戒心を持つのですが、人となりがわかってくると休み時間に駆け寄ってくる子もいます。
特に小学生ですね。

 

面白いのは、彼らが一生懸命韓国語を私に教えようとしてくれることです。
私はヨーロッパ言語は多少できるものの、それ以外はまるで話せません。
そのことを知って、子どもたちが私にあれやこれやと流行りのものなどを教えてくれるのです。
どっちが先生だかわかりゃしません!
でもこれは私にとって嬉しいことで、やりがいのある仕事であり、楽しいと思える仕事になりました。
子どもは良くも悪くも純粋なので、嫌いなら嫌い、好きなら好きとはっきり、しかも本音で言います。
大人のように建前がないので、本音でぶつかってきてくれます。
そこで私の授業が楽しいと言ってくれると、その日の私は有頂天になります。
その何気ない言葉が体調が悪くてなかなか精神的にも安定しない私の心をどれだけ救ってくれているのか、彼らは知らないのでしょう。
子どもたちは私にとって、どんなマッサージやリラクゼーションよりも素晴らしい癒しとなっています。

 

反対に、私が彼らにしてあげられることといえば、やはり仕事として日本語を教えることです。
よく勘違いされるのですが、私の地元の朝鮮学校に通っている子は少しは日本語ができると思われているのですが、そうではありません。
家ではお父さん・お母さんと韓国語を話しますし、学校でも授業は韓国語で行われるので日本語と触れ合う機会はあまりないのです。
日本に住んでいるからには少しずつわかるようになるだろうというのは間違いです。
だからこうして日本語教師が必要とされています。

 

私も、彼らに日本語を教えることになってからは多少の韓国語を覚えましたが、言葉の構造が似ているのはありがたいなと思いました。
文法があまりにかけ離れていると、理解はできたとしてもなかなか定着できません。
しかし、地理的にも近い韓国では、日本語と単語の発音が一緒のものも結構あって興味深いなと思いました。
そのこともあってか、一から英語を日本人に教えるのと比べると、彼らの習得度合いというのは早いように感じます。
語学は、リスニング、スピーキング、リーディング、ライティングの4つの技能が必要ですが、私は満遍なく日本語を教えるのでこの全ての能力を上げていくのが仕事です。
個人的には、会話を重視したいのでリスニングとスピーキングを強化してあげたいのですが、テストとなると読み書きが中心なので、それらに重点を置かざるを得ません。

 

彼らの日本語が上達するにしたがって、私との会話もできるようになるのが嬉しいようです。
上級生はまあまあ話せるようになっているので、こちらも嬉しいですね。
私も韓国語で言える言葉が多くなってきましたが、それでもあえて日本語で話しかけます。
これは大学時代、英語の先生がやっていたことの真似です。
私はその先生が日本語を話せることを知らなかったくらい、先生は英語しか話しませんでした。
その理由は生徒に英語にしっかり浸かってもらいたいからだったと思っています。
一度私が韓国語がわかると知ってしまえば、ましてや小学生や中学生は楽な方をとるでしょう。
私に対しても韓国語で良いのだと思わないよう、私は日本語しか話さないようにしています。

 

教える以外の仕事としてはちょっとした事務作業がありますが、正社員ではないのでそこまで任されることはありません。
金銭面では、欲を言えばもっと欲しいですが、働いている時間を考慮すればそれなりだと思っています。
私が過ごしやすい環境なのだからそこは文句は言えませんね。
ただ、私がイギリスではなく日本で日本語教師をやることによって生まれた葛藤というのはいまだに続いています。
今の仕事が楽しいのはとても良いことで、辞めたくないと思っています。
しかし一方で、日本語教師の資格を取ったのは日本で働くためではないとどこかで思っています。
そう、イギリスへ行くためのスキルだったはず。
これがいつも少しだけ胸に引っかかっているのがもやもやポイントですね。

 

今の体調でイギリスに行って、日本語教師プラスαの仕事ができるか、そもそもその仕事を見つけられるかという点においては自信がありません。
よって、これからもしばらくはこの生活が続くのかなと思っています。
健康ならば良しという考えなので、特にキャリアアップや結婚など、将来のこともまるで考えていません。
とにかく苦しまない、痛くないのならそれだけで良しとしたいのです。
できることなら、その朝鮮学校で働く先生たちの言っていることがもっとわかればなとは思いますが、中には日本語が堪能な先生もいるので寂しくはありません。
職場の雰囲気も良いですし、堅苦しくないのが私の好みですね。

 

職場の外では、地元で仕事をしていることもあり、街で生徒にできるだけ会いたくないという気持ちがあります。
別に会ったら会ったであいさつを交わすだけなのですが、私はあまり先生のプライベートは見たくないなと思いますし、見せたいとも思いません。
今までは結構ラフな格好ですっぴんで出歩いていましたが、それをしなくなりました。
職場の外なのだから良いのですけど、私が気にしてしまうのです。
働いている時だけでなく、外でも教師や警官はそれらしく振舞うべきだというのが今の世間の意見なので、少しはそれに引っ張られている感もありますね。
最近ではなんとなく100均で建て眼鏡を購入しちゃったりなんかしました。

 

と、ここまでは比較的日本語教師として楽しんでいるという面を述べましたが、もちろんイラっとすることもあります。
それは、やる気のない生徒のこと。
朝鮮学校自体の数が少ないので、学力問わず、生徒はここにしか通えないという子も多いです。
となれば、当然色んな生徒がいますよね。
勉強なんかしたって意味がないから寝る生徒。
日本語はもう話せるから授業が楽しくない生徒。
多動性障害に近い症状で教室を出ていく生徒。
アニメが大好きで、真面目に授業を聞きたい生徒。
集団授業の悪いところは、これらの生徒をまとめてみなければならないところです。
一人一人を見ることが不可能なので、ある程度は諦める必要があります。
もし本当に一人一人に構っていたら授業なんてできないでしょう。

 

私も学生時代は勉強は真面目に受けましたが、勉強が嫌いなタイプでした。
だからわからなくもないのですが、あからさまに嫌がられている態度を見るとやっぱりげんなりしますね。
それでも仕事だから、仕方なく言うことを聞かせないといけないのは少しイラつきます。
私はどちらかというと生徒の立場に寄り添いたい友達タイプなので、上から威厳を持って抑えるようなことはしたくないのです。
それでも、仕事だからと持ち前のSっ気を発揮して叱ることはできますが、不本意ですね。

 

と、このように日本語教師の仕事はやりがいがあって楽しいながらも、子どもに若干振り回されている感があります。
日本語教師の資格の勉強をしていたころの自分は、地元の朝鮮学校でその腕前を振るうことになるとは微塵も思っていなかったでしょうね。
それでも落ち着くところには落ち着くというのもので、まあまあ楽しい生活を送っています。
興味のなかった異文化に触れる機会もでき、どこの国でも子どもは同じだなと感じることができています。
勉強嫌いで子ども嫌いな私が今この仕事をやっているのは不思議ですけどね。

番外編…国語教師の話

「私はね、もうすぐ自殺しようと思ってるんですよ」
五月のよく晴れた日の教室で、教壇に立っていたあの人はぽつりと呟きました。
眼鏡をかけて、いつも背筋を曲げて下を向きながら喋る姿には、たしかに死の影が付き纏っているような気がした。

 

あのとき、私は高校二年生でした。
神奈川県の内陸で父と母、それに二つ上の兄のいる家庭に生まれ、特に不自由もなく育てられました。
中学校に入るとサッカー部に所属し、部活の友達とサッカーに明け暮れる日々を送り、そのせいか勉強は苦手で、結局あまり勉強しなくても入れるような高校に入学することになりました。
しかしそのことで親は特に心配することもなく、自分の人生なのだから自分で決めなさい、と言ったような鷹揚な態度で私に接してくれたのでした。

 

高校でもサッカーをやろうと意気込んで入学したのですが、あまり偏差値の高くない高校だったためか、当時サッカー部はかなり荒れていました。
しょっちゅう部活の顧問と生徒が揉めたり、ろくに練習もしないまま試合に出たり、部員同士が徒党を組んで悪さをしたりすることが当たり前になっているような状態。
仮入部期間にその実態を知ってしまった私はなんだかがっかりしてしまって、結局どこの部活にも入らずに、友達とゲームセンターに行ったり、家で漫画を読んだりして日々を過ごしていました。
中学生の時に思い描いていた高校生活とはかけ離れた日々を送っている自分に驚きながらも、内心これはこれで楽なのだからいいのではないか、と自堕落な生活にのめりこんでいました。

 

そんな生活が一年ほど続いたとき、国語の授業で、私はあの先生に出会ったのでした(その先生を、仮にT先生としておきます)。
T先生の授業は、今までに受けたどんな授業とも大きく違っていました。
国語の教科書などはほとんど使わずに、気が向いたときにパラパラとめくる程度。
それよりも先生は、自分の声で直接生徒に語りかけることを好んでいました。
黒板に大きく「死」と書いて、一時間延々と死について語りかけるといった授業スタイルです。

 

先生の飄々とした語り口調には不思議な魅力があり、いつもはまともに授業など聞かない生徒たちが、T先生の授業だけは珍しく真面目に聞きいっていることもしばしばありました。
T先生のひょろひょろの体のどこに、生徒たちを引き付ける力があるのか、といつも不思議に思いながら聞いていたのを覚えています。
そんな私もいつしか、T先生の授業だけはしっかりとノートに取り、一言も聞き漏らすまいとしていました。
ひとことで言えば、私は先生に憧れていたのでしょう。
T先生の考えることに惹きつけられ、T先生がどういう風に生きているのかが知りたくてしょうがありませんでした。

 

私は授業の後、よく先生に質問をするようになりました。
先生はいつも丁寧に答えてくださり、また一言二言授業に関する面白い小話も紹介してくださいました(とは言っても、決して先生は個人的な話はされませんでした)。
私は先生の持つ暗さのようなものにたまらなく魅了されていました。
先生の言葉には不思議な重みがあり、私は先生の喋った言葉の意味について繰り返し考えるようになりました。
先生が授業で紹介した本や音楽は家に帰るとすぐに買って読み、聴くように。
私は、少しでも先生に近づこうと夢中になっていました。

 

そんなある日、いつものように私が国語の授業が終わった後に先生に質問をしに行くと、先生はぽつりと呟いたのでした。
「私はね、もうすぐ自殺しようと思ってるんですよ」
その言葉を聞いた途端、心臓が止まるのではないかと言うくらい胸が痛み、呼吸が荒くなったのを覚えています。
私はまともに働かない頭を無理やり動かし、苦し紛れに一言、「死んだら、いけないと思います」とだけ答えました。
先生は私の言葉を聞いて少し驚いた様子を見せましたが、そのあと少しだけ微笑み、「そうだね」とだけ答えると、教材を持って教室を出ていってしまいました。

 

あっけにとられたまま、私は教壇の前で一人、ぽつんと佇んでいました。
なぜそんなことを言うのだろう。
先生ほど知識をたくさん持っている賢い人が、どうして自殺など考えるのだろう。
それに、何故そんな大事なことを私なんかに言ったのだろう。
私は先生のことがわからなくなりました。
私がどれだけ近づこうとしても、T先生の考えていることなど全く理解できませんでした。
しかし、むしろ理解できなければできないほど、いっそう私の中で先生への憧れは増していきました。

 

なので、高校二年生の冬、クラスの担任の先生との二者面談で進路を聞かれたとき、私は迷わず国語の教員になると答えていました。
T先生について理解することはできないけれど、せめて同じ職業に就けば、少しはT先生に近づけるかもしれないと思ったのです。
幸い、授業を真面目に聞いていたおかげで国語の成績だけは良かったので、担任の先生は文句なしに応援してくれました。

 

休日や放課後などに、私は本をよく読むようになりました。
T先生が紹介した本を何度も繰り返して読み、先生だったらどう考えるだろうかとあれこれ考えながら過ごしているうちに、あっという間に時間は経ちました。
冬休みの間中、好きだったサッカーもしないでずっと家にこもって本を読んでいる私を見て、親は驚いた様子でした。

 

冬休みが終わり、高校二年生の三学期が始まりました。
三学期は他の学期に比べて短く、加えて積雪の影響などにより休校日が増えたため、授業日数も少なくなりました。
少ない授業日数の中で、T先生はいろいろな話をしてくれました。
日本と西洋の文化の違い、尊厳死の問題について、高校生活をどう過ごすべきなのか……。
そして3月、最後の授業で、先生は私たちに短い映画を一本見せてくれました。
それは海外で撮られたアニメ映画で、水に沈みそうな町の話でした。
そこでは水没の危険から住民がほかの土地へ移り住んでしまい、年老いた男性がただひとりその町に住み続けていました。
素朴でありながらもどこか切ない話だったのを、よく覚えています。

 

授業が終わり、私は先生のところへ個別にお礼を言いに行きました。
一年間ありがとうございました、また来年もよろしくお願いしますと頭を下げると、先生は「ぼくは来年別の高校に行かなければならないんです」と、相変わらず小さな声で、秘密を打ち明けるように話してくれました。
私は驚き、急に心細い気持ちに襲われながらも、思い切って「私は、将来国語の教師になろうと思っています」と打ち明けました。
先生は驚いた顔をした後、何か考え込むようにしてから、私の顔を見つめて「それは、やめた方がいいかもしれない」とひっそり答えました。
「なぜですか」
「なぜって、給料も少ないし、時間に縛られるし、何より人間関係が大変だよ。ぼくは生まれ変わってもこんな職業には就きたくないね」
私は急にさびしいような、悲しいような、憎いような気持になって、俯いてしまいました。
なんでそんなことを、言うのだろう。
やっぱり先生の言うことは、わかりませんでした。
先生がどんな顔をしているのかはわかりませんでしたが、私は自分の足元を見ながら「でも、私は国語の教師に、なります」ときっぱりと言い放ちました。
先生は少し黙った後に、おだやかな声で「そう。それなら、いいんじゃない。がんばって」と言いました。
私が顔をあげると先生はいつもの様子で、しかし、心もち微笑んで立っていました。

 

春になり、私が高校三年生になると、T先生は言っていた通り別の高校に赴任しました。
そうして私はT先生のことを見ることはなくなりました。
夏が来て、大学受験の予備校に通いだし、私は生まれて初めて真面目に勉強をしました。
先生が通っていたと教えてくれた大学は私立大学の中でも難関校と言える所でしたが、私もその大学に受かりたいと必死になって英単語や歴史の単語を暗記し、先生の授業とはかけ離れた形の国語の練習問題を解きました。
その甲斐あってか、私は奇跡的にT先生の通っていた大学の文学部に合格することができました(今考えても本当に奇跡だと思います)。
そこで私は国語の高校教員免許の資格過程を取り、教師になるための勉強を4年間しました。

 

三年生のとき、教育実習がありました。
教育実習とは教員免許をとるための必修科目で、2〜3週間の間、実際に学校で生徒を相手に授業をするというものです。
私は母校でその実習をすることになりました。
懐かしい校舎に入り、古めかしいリノリウムの廊下を歩いていると、自然と先生のことを思い出しました。
数年前まで生徒であった自分が、今度はT先生と同じ職業の真似事をしていることを思うと、不思議な気持ちに襲われました。

 

教室に入り、生徒たちに挨拶をしたあと、私は国語の模擬授業をしました。
あのとき先生がやっていたように黒板に大きく「死」と書いたりはせず、用意したカリキュラム通りに、古典の文法の活用について授業をしました。
生徒たちは真新しい人間に最初は興味を持っていたものの、授業が特別なものでないとわかると、とたんに退屈な表情を見せ始めました。
渡しは活用を紹介しながら、T先生ならばどのように授業をするのだろうと考えていました。
おそらく私のように生徒を飽きさせるようなことはしなかったはずです。
私はT先生がいかに魅力的な先生であったかを痛感すると同時に、T先生は文部科学省から定められた授業要領から一切はずれた授業をしていたけれど、どうやってごまかしていたのだろうと疑問に思いました。

 

そうして教育実習を終え、私は第一種免許状を取得し、大学を卒業。
高校の教師は倍率が高く、はじめのうちはクラスを持つことができずに非常勤講師として働いていましたが、数年後には神奈川県内の公立高校で古典を教えながら、クラスを持つことが出来ました。
教師という仕事は、T先生が言っていた通り楽な仕事ではありませんでした。
無給で部活動の顧問をさせられ、授業だけではなく大量の雑務に追われる日々。
ストレスに押しつぶされそうになりながらも、私はときどきふとT先生のことを思い出します。

 

高校生のころ、なぜ私はあんなにT先生に夢中になっていたのか、今ではよくわかりません。
思春期特有の大人への憧れと言ってしまえばそれまでなのですが、しかし、それを抜きにしてもT先生には不思議な魅力がありました。
授業だけではなく、先生自身が、なにかとてつもない秘密をかかえていたような人でした。

 

私はT先生とはかけ離れた、真面目で退屈な教師として、生徒の目には映っているのかもしれません。
あの型破りな教師スタイルに憧れる半面で、生徒に自殺しようかと思っていると打ち明けるような教師は、良い教師ではないと思います。
しかし、そんな教師に憧れていた私がいたのもまた事実です。

 

T先生がどうしているのか、今では知る由もありません。
高校3年生になって先生が別の高校へ行ってから、一切の消息はわからないのです。
もしかしたら、本当に自殺をしてしまったのかもしれないし、まだしていないのかもしれません。
しかし、まだ生きているとすれば、もう一度会ってみたい気もします。
そのとき、本当に国語の教師になってしまった私に、先生は何と言うでしょうか。
大人になった私の目に、先生はどう映るのでしょうか。
一度会って確かめたい気もしますが、また先生の魅力に圧倒されてしまったらどうしようかと、未だに怖がっている自分が確かにいるのです。

 

最近では国語教師としての知識の幅が広がるのではないかと思い、日本語教師についても興味があります。
日本語を人に教えるために、今まで意識もしなかったようなことを勉強する必要があるとのことでした。
もしかしたら、退屈な思いをさせている生徒にも、より面白い授業ができるようになるかもしれません。
つまらないよりも面白い授業の方が絶対に良いでしょうし、生徒から好かれたいのもまた事実です。
これから色々と調べてみて、まずは本でも買ってみようと思っています。